【?】いじめや虐待の産物

はじめまして、rageです

 

唐突ですが、私の過去についてお話しします。

かつて私は父親から躾という虐待を受け、学校ではいじめの標的にされ、散々な学生生活を送りました。

学校の先生にいじめを相談すれば「虐められる側にも問題がある」の一点張り。親への復讐について話をすれば「復讐は何も生まない」というテンプレのような返し。

会社では流石にいじめは無いだろうと思っていたが矢先に新人いじめや無茶な仕事量の押し付けが横行。小中といじめを受け続けて軽い鬱だったものが社会人になってとうとう爆発、自殺未遂をしました。

 

かつて考えたことがあるのですが、「何故人を殺してはいけないのか」という問いに対して、「亡くなった人を悲しむ人がいる」という答えが当然のようにありますが、では例えば「亡くなった人が万人から嫌われていて、悲しまれもしないような人ならば殺めても良いのか」という問いならば如何でしょう。「誰かが悲しむ」だの「社会性を損う」だの、復讐を是としない事を吐く口は実に綺麗事を言い慣れています。復讐からは何も生まれないというのは実に最もな綺麗事の代表格ですが、では復讐を考える人たちは如何にしてその原因を断ち切るのでしょうか。否、復讐なしには永遠に因果から逃れることは敵いません。いじめや虐待を行った対象に施す復讐は言わば「制裁、刑罰」であり、世間一般で考え得るような殺人や略奪のそれではありません。

虐待を受けた児童やいじめの被害者は須くこれを知っているのです。自らを虐げた者の顔を覚えていない被害者はとても少なく、誰もが復讐心を抱きます。うち少数は復讐鬼になることもあるでしょう。

 

人を復讐行為、或いは怨恨の意思が見られる殺人から守る綺麗事(またの名を大義、倫理)は無数に用意できます。あの人の親がかわいそうだの、残された家族がどうのこうのなどと、喚く人も数多います。がそんな事を考慮して行えるほど復讐は甘いものではなく、殺した側も満足するはずです。

 

死んだ人を弔うより、その人に殺意を芽生えさせた本人が逝去したことを喜ぶべきではなかろうか、と私は考えます。

 

余談ですが、私は1人の友人以外は全員死んでも構わないと考えています。

なぜなら、家族は父からの虐待を受けている私を見ても見守っているだけ、友人はいじめを見て見ぬ振りをした、という単純なものです。

嫌いなものはとことん嫌いでいる姿勢の何処に問題があるのでしょうか、あるはずもありません。

 

 

 

 

 

 

【?】ウイルスと人間 

初めましての方ははじめまして、rageです。

今回は流行病についてのお話です。

今年3月に新型コロナウイルスという感染症があるクルーズ船を起点に日本へ拡散されて、はや5ヶ月。

気付けば多くの有名人の感染が報道されるようになってしまいました。有名人以外にも一般人の方々を含めて、首都や大阪での感染者は今月から毎日のように100人を軽く超えています。地方でもほぼ毎日感染者が発生している状況です。

ちなみにこれは8月時点での話であり、5、6月の時点では私の住む福島県は感染者を 0人まで押さえ込み、大阪や京都、東京での感染者は一桁と、極めて少なかったのです。ちなみに記事を書く昨晩のニュースでは東京の感染者は200人超でした。

 

何故ここまで感染が広まってしまったのか、まずは5〜7月までの感染防止対策などについて説明していきます。

5月ごろ、都内での感染者は100人を超え、安倍総理大臣は緊急事態宣言を発令、都内含む全国でのサービス業などへ営業の自粛を指示しました。これにより6月頭頃には感染者は大幅に減り、地方での感染者は日に1人いるかいないか、都内での感染者は一桁台に収まりました。代償として、営業自粛によるサービス業を営む大手企業の収入は激減、老舗料理店などが閉店するか規模の縮小を余儀なくされ、倒産も相次ぎました。6月中頃、国会では新型コロナウイルスによる経済的影響を鑑みて、「Go toキャンペーン」なるものが発案され、7月頭にこれが実施されたわけですが、私はこれが感染者増大の鍵となったと考えています。このキャンペーンは簡単に説明すると「旅行会社、飲食店を利用する方の負担を軽減する」というもので、多くの方々にさまざまなサービス業を利用してもらおうという国の目論見がありました。7月中旬には影を潜めていたウイルスが一気に感染拡大、キャンペーンや自粛を解除した影響により、全国各地で感染者が激増し、今に至るわけです。

3月から4月末まで何をしていたかというと、国は保菌者が乗ったクルーズ船を一月丸々感染者ごと隔離し、感染者とそうでない人を分けて、感染していない人のみ自宅への帰宅を許可しました。後から問題になったのは、自覚症状が出るまでに2週間はかかる事、帰宅時に電車やバスの交通機関の利用を許されたところです。キャリアが陰性であったとしてもキャリアであることに変わりは無く、民間人と隔離をするわけでも無く、帰宅をさせるのは感染のリスクを大いに孕みます。自覚症状が無いからと易々と帰宅させてしまうのも迂闊だと思いました。

 

ちなみに、上に緊急事態宣言が発令されたと書きましたが、その日私がみた渋谷のライブカメラには、マスクも付けずくっついて移動する大人数の男性、仲良く手を繋いで何処かへ向かうカップルなどが見受けられました。国は何故か外出自粛を呼びかけるばかりで、各国にあるような禁止命令を発令しませんでした。新型コロナウイルスによる死者が週に何人も発生しているのに、です。

 

私から見れば国も市民も大概です。安倍首相の妻が自粛命令の出ている最中花見をしていたり、自粛に痺れを切らして大勢で遊びに行く都民や市民、非常に低俗な方々だと思いました。

一国の首相ともあろう方の妻が国の命令を易々と破り、それを見た国民が国への怒りを爆発させ、指示に逆らい外出を控えるどころか活発になってしまい、結果的にウイルスの感染を止められなかったのです。

クルーズ船の時点では新型コロナウイルスの正体は掴めず、どのような症状かなどが全くわからない、まさに未知のウイルスでした。蓋を開けてみれば、ウイルスが各地で耐性を持ち始め、自らの構造を変えるという特異な性質を持っていることがわかりました。本当なら国外かどこかに隔離して、未知のウイルスについて調べ尽くすべきでした。帰宅を許すなどもってのほかなのです。

 

私が思うに、国民も国も危機感が足りていません。

親とも話しましたが、「自分はかからない」と思っている人があまりにも多いのです。今の若者は他人への執着が全く無いため、CMなどで「家族の命を守るため外出を控えましょう」と言った内容のものが流れてもなんの気無しに外出します。今の人間における他人とは所詮その程度のものなのです。

 

最後に一言。私はこの日本に生まれ良かったと感じたのは、日本が思いやりの心を持っている人が多い事がわかった時ですが、今は絶望しています。

身勝手で他人の命を顧みず、人を思いやれないような人はどうぞ勝手にウイルスに罹って下さい。

自分の身を自分で守れないような人間が、やすやすと日本人を名乗らないでください。

極めて不快です。

 

【ブ】記事の表記について

前々から感じていた事で、読者の方々に興味のある記事を読んでもらうために、記事のタイトルに「これはゲームの記事」とか、なんとかわかりやすく出来ないかと考えて、今回からタイトルの頭に【】をつけることにしました。例えば内容がゲームについてなら【ゲ】、ブログの内容の変更等の場合は【ブ】、何の気無しに書きたくなった内容なら【?】、音楽関係なら【音】といった感じです。

興味のあるものについては記事をたくさん書いていくつもりなので随時追加していきます。

 

忙しかったりしてこの内容を記述する事を忘れてその日その日思いついた事を公開してしまっていた今日この頃でしたが こうやって少しでもやるべき事を進められて良かったと思います。

 

それでは

 

絆とコンテンツと能力

何日も間を開けてしまったが今日の人間関係で一つ思うところがあったのでひとつ。

 

高校卒業後、類似したゲームが好きになったりして仲良くなった友人Rという方がいます。

彼はゲームセンターにあるゲームが大好きでほぼ毎日と言っていいほど通い詰めていました。

私も同じくそのゲームが好きで、毎日とは言えませんがちょくちょくプレイはしていました。

 

数年後、職を変えてもなおゲームをプレイし続ける友人Rを見て、私は「ただでさえ貧乏人の私が、このままゲームに金を掛けて、何か意味があるのだろうか?」と思いました。

ゲームはプレイすればするほど上手くなる時もあれば辛く苦しいスランプを経験する事もあります。

高難易度をクリアすれば精神的に喜びを得ることができます。しかし数年プレイして私はある事を発見しました。

ゲームをどんなに頑張っても私には才能が無く、例え全プレイヤーの上に立ったとしても、ゲームそのものや制作会社からは私には何のリターンも存在しません。メリットがクリアできた喜びや優越感、ただそれだけで終わってしまい、人生の質に関係するメリットは皆無と言えます。所詮は遊びなのです。

 

しかしながらこのゲームとの離別が難しく、友人Rとはそのゲームありきで繋がっているとも考えているので、このゲームを切り離すこと即ち友人を失うことだと考えています。その程度の絆なのかと思うかもしれませんが、もちろんそうではないと信じたいです。

 

私にはゲームをプレイする能力が不足していて、それを諦めて捨てようにも、能力の優れた友人を切り離したくないがためにコンテンツをグダグダ続けています。それに、私が例え偉業を成し遂げても、周りにそれを理解してくれる人間が殆どいません。

別のゲームだから関心がなかったり、またはその凄さが理解するに相応しくないものだったり、ある人は所詮はゲームだと言いました。

 

過去の自分はそれでも自分がよければいいのでは、と思い込んでいましたが、今は違います。

所詮はゲームであり、ほんのひと時の愉悦を得るための行為でしかないのです。 

一人暮らしを考え始めた時に自問しました。普段の食事が自分の働いた金なら、ゲームに注ぐ金は一体どこから出るのかと。ローンや生活費も計算していくと、およそ余る金など見当たらないのに、何故見返りも得られないゲームに没頭するのか。

同じ世代の子は承認欲求をSNSで満たしていて、その行為を嫌悪する自分も同じことをしようとしていたことにあまつさえ今まで気付かなかったことに後悔しています。

地方から上京を考えるならば金はいくらあっても足りないものです。一人暮らしとなると不安も一入なはずです。将来的に不安を抱いているはずの自分が最も目を向けるべき自分の人生を蔑ろにしていた事を悔やんでも悔やみきれません。

 

誰かに認められたい、褒められたいという承認欲求だけで今までゲームを続けては来ましたが、大人になって現実と向き合うべきだと実感してそれを放棄する事に決定しました。偉業を成し遂げてもそれが狭い世界(ゲームなんて尚更です。その凄さを知る人しか褒めることができないのですから。)では褒められてもそこまで嬉しくはならないので、上京し、1人のクリエイターになることを決意しました。

 

人の絆が、たった一つのゲームを辞めただけで切れるなら、私はこの先友人は作らないでしょう。

クリエイターとなる私を彼は応援してくれると信じて、二人を繋いだコンテンツに別れを告げます。

いつかまた蟠りなく談笑できる日が来ると信じて。

 

 

 

 

ドッキリとは

注意※先に言っておきますがこの記事はあくまでも私個人の意見です。俗に言うドッキリ番組が好きなタイプの人はスルーをお勧めします。※

 

ドッキリのタイプは大体3種類くらいに分類できます。1つは相手を喜ばせるもの(海外でのプロポーズサプライズのようなタイプ)、もう一つは相手を不快な気分にさせるもの(日本で言えば職質ドッキリや離婚ドッキリでしょうか)、種類が多過ぎて他はその他、って感じですね。

 

日本には今紹介したうち、2番目のドッキリがなぜか非常に多いです。

前置きが長くなりましたが、私は他人に不快感を与えるドッキリを滅茶苦茶嫌います。

理由として、単純に見てて嫌気がする、演者に対してのメリットが見当たらない、など挙げればキリがありません。

嫌なら見るな、と言う意見は間違ってはいません、しかし今のテレビにはドッキリ番組が多過ぎて、「嫌なら見るな」は「テレビ見るな」くらいに難易度が高いです。

ここまで私をドッキリを厭悪させる原因となった番組がかの有名な「モニタリング」です。

件の番組は過去に「新婚夫婦の離婚ドッキリ」、「万引き芸能人ドッキリ」など、製作者の性格の悪さが露見するようなドッキリを仕掛けてきました。

考えた人間の精神構造が理解出来ないというのが正直なところです。

ドッキリ番組は今でもかなりの数が放送されていますが近年はドッキリのウケが悪く、視聴者は年々減っているようです。

 

私としては、普段から料理を作らない父親が手料理を振る舞ったり、誕生日パーティーをこっそりと企画する、といった温かい目で見られるドッキリを考えて欲しいのですが、世の中には他人が不快に思う行為を喜んでする人も沢山いる事を考えると、真に平和的なドッキリは少ないのかなと思います。残念です。

 

ドッキリは昔からあったのか、ドッキリの需要はあるのか、この先も続くコンテンツか、いずれの質問に対してもYESです。

人間の人格は千差万別でみんな違うので、そういった下卑たコンテンツを好む者も少なからずいます。

なのでどう足掻いてもこの先消えることは当分ないでしょう。

 

仕事終わりでストレスをぶつける先がブログになってしまったことに対して、生産性がない行為では?と感じましたが、ブログは続けてこそ価値を生み出せる、という言い訳を残して今回は〆ます。

価値観と人格と家族

お引越しの準備で定期的にブログの更新が遅れてますが…ご了承下さい。

 

私は小中高共に友達がそこまで多かったわけでもなく、学校行事でも大した思い出が作れなかったので、写真や色紙などを捨ててしまいました。

昔は「どうしても捨てられない」とか「せっかくだからとっておきたい」とか言い訳を並べては整理する機会を逃してばかりだったのですが、成人してから思い出がいかに無意味なものか知ったため、部屋から思い出の品というものは殆ど捨てたかと思います。

母親は、「せっかくだからとっておいたら」なんて言ってるのですが、今や自分にはなぜ思い出の品が大切なのかもうよくわかりません。

 

家庭内の虐待から始まり学校内のヒエラルキーや陰湿ないじめが跋扈していた学校で、そのターゲットとなってしまった自分は友達と言える友達はおよそ数人しかおらず、社会人になってからはとうとうその友人とも連絡を取らなくなってしまいました。現状連絡をとっている友人は同じ会社に就職した高校の同級生だった1人です。

 

楽しくない学校生活の思い出の品とやらを残す必要がありましょうか、否、残す必要性を問う事すら愚問と言えましょう。

かくして私の社会人生活以前の友人も思い出も全て存在しないものであり、金輪際思い出す必要もない為、たくさんのものを捨てることができました。

 

昔は自分を比較的温厚で篤実な性格だと思っていましたが、優しくした人間から冷遇を受けて、人間という生き物が如何に醜く汚い生き物かを知り、私は猜疑心が強く常に懐疑的な人間に変貌したように感じます。

 

今回は自分なりの断捨離について考えてみました。

いつのまにか性格が変化していた事実が身に染みてわかりました。