絆とコンテンツと能力

何日も間を開けてしまったが今日の人間関係で一つ思うところがあったのでひとつ。

 

高校卒業後、類似したゲームが好きになったりして仲良くなった友人Rという方がいます。

彼はゲームセンターにあるゲームが大好きでほぼ毎日と言っていいほど通い詰めていました。

私も同じくそのゲームが好きで、毎日とは言えませんがちょくちょくプレイはしていました。

 

数年後、職を変えてもなおゲームをプレイし続ける友人Rを見て、私は「ただでさえ貧乏人の私が、このままゲームに金を掛けて、何か意味があるのだろうか?」と思いました。

ゲームはプレイすればするほど上手くなる時もあれば辛く苦しいスランプを経験する事もあります。

高難易度をクリアすれば精神的に喜びを得ることができます。しかし数年プレイして私はある事を発見しました。

ゲームをどんなに頑張っても私には才能が無く、例え全プレイヤーの上に立ったとしても、ゲームそのものや制作会社からは私には何のリターンも存在しません。メリットがクリアできた喜びや優越感、ただそれだけで終わってしまい、人生の質に関係するメリットは皆無と言えます。所詮は遊びなのです。

 

しかしながらこのゲームとの離別が難しく、友人Rとはそのゲームありきで繋がっているとも考えているので、このゲームを切り離すこと即ち友人を失うことだと考えています。その程度の絆なのかと思うかもしれませんが、もちろんそうではないと信じたいです。

 

私にはゲームをプレイする能力が不足していて、それを諦めて捨てようにも、能力の優れた友人を切り離したくないがためにコンテンツをグダグダ続けています。それに、私が例え偉業を成し遂げても、周りにそれを理解してくれる人間が殆どいません。

別のゲームだから関心がなかったり、またはその凄さが理解するに相応しくないものだったり、ある人は所詮はゲームだと言いました。

 

過去の自分はそれでも自分がよければいいのでは、と思い込んでいましたが、今は違います。

所詮はゲームであり、ほんのひと時の愉悦を得るための行為でしかないのです。 

一人暮らしを考え始めた時に自問しました。普段の食事が自分の働いた金なら、ゲームに注ぐ金は一体どこから出るのかと。ローンや生活費も計算していくと、およそ余る金など見当たらないのに、何故見返りも得られないゲームに没頭するのか。

同じ世代の子は承認欲求をSNSで満たしていて、その行為を嫌悪する自分も同じことをしようとしていたことにあまつさえ今まで気付かなかったことに後悔しています。

地方から上京を考えるならば金はいくらあっても足りないものです。一人暮らしとなると不安も一入なはずです。将来的に不安を抱いているはずの自分が最も目を向けるべき自分の人生を蔑ろにしていた事を悔やんでも悔やみきれません。

 

誰かに認められたい、褒められたいという承認欲求だけで今までゲームを続けては来ましたが、大人になって現実と向き合うべきだと実感してそれを放棄する事に決定しました。偉業を成し遂げてもそれが狭い世界(ゲームなんて尚更です。その凄さを知る人しか褒めることができないのですから。)では褒められてもそこまで嬉しくはならないので、上京し、1人のクリエイターになることを決意しました。

 

人の絆が、たった一つのゲームを辞めただけで切れるなら、私はこの先友人は作らないでしょう。

クリエイターとなる私を彼は応援してくれると信じて、二人を繋いだコンテンツに別れを告げます。

いつかまた蟠りなく談笑できる日が来ると信じて。